よかろうもんブログ

「常識を身につけ、常識を疑え。」つまり“たかが挨拶”と言ってもいいのは…

   

タイトルの「常識を身につけ、常識を疑え。」は
高橋がなり氏の「負け犬からの脱却十ヶ条」のひとつです。

正しくは

一、常識を身につけ、常識を疑え。
(常識は思考能力のない人の道具である場合が多い)

です。

もし「挨拶をする」が常識だとしたら、
「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」が「常識を疑う」ということでしょう。

 

もう一度読んでみましょう。

一、常識を身につけ、常識を疑え。

「常識を身につけ」と書かれています。
つまり、「常識を身につけ、常識を疑え。」に沿って考えるならば
「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」と言ってもいいのは
「挨拶が出来ない人」ではなく「挨拶が出来る(という常識を身につけた)人」だということになります。

「挨拶が出来る人」が「たかが挨拶」というのはまあ分かる。
「挨拶が出来ない人」が、「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」などと言うのは聞き苦しい。

 

『負け犬からの脱却十ヶ条』

一、自分だけは自分の潜在能力を信じてあげろ。
一、自分の予測する、自分の限界という壁を越える経験をしろ。
一、自分を正当化して「出来ない」というな。
(経済的、時間的、人的等の要因を「出来ない」理由にするな)
一、金よりも大切な目的を持て。
(金は手段であって、目的ではないはずだ)
一、常識を身につけ、常識を疑え。
(常識は思考能力のない人の道具である場合が多い)
一、信念を持て、そして信念に照らし合わせて行動しろ。
(信念がないと目先の利益に捕らわれてしまう)
一、ずるい技法を学べ、しかし利用するな。
(技法を知っていればだまされずにすむことが多い)
一、行動に迷ったときは、自分にとって苦しいと予測するほうを選択しろ。
一、カッコ良く生きろ。
(但し、土下座することやボロを着ることもカッコ良い場合がある)
一、親を大切にしろ。
(親とは今の自分が存在する要因となった人のことをいう)

しかしこの「負け犬からの脱却十ヶ条」、読み返すと非常に宗教っぽいですねえ。
昔は全く気になりませんでしたが。

 - 雑文